「オリンピックが『平和の祭典』と表現するならパラリンピックは『人間の可能性の祭典』です」と日本パラリンピック委員会の委員長である『河合純一』氏が語っていました。本当にその通りだと思います。例えば両腕が二の腕の部分から無いのに両足で弓を引くアーチェリーの選手や、同じく両腕が無いのに卓球をする選手とか「えっ何でそんなことが出来るの?」と思ってしまう。その時点で「○○が無いから出来ないのは当然」と人の可能性を完全に否定している自分が居ることに気が付きます。そしてパラリンピックを見ると人間の偉大さに改めて気付かされます。気付かされてばかりですがパラリンピックは驚きと感動ばかりです。私は少しジョギングをしますが目を閉じて3mも怖くて走れません。それが広い体育館で「何も無い」と分かれば走ることは出来ますけど恐怖心は無くなりません。それを伴走者が居たとしても走り続ける選手たちには驚かされます。考えてみれば競技を始めた頃の練習から伴走者が常に居た筈も無く、きっと一人で走って何度も衝突したり転んだりの繰り返しだったと思います。私なら諦めます。そして自分を正当化します「出来なくて当然」と。しかしパラリンピックに出場する選手たちは誰も諦めないで出場するのです。数ヶ月戻って読んで頂ければ分かると思いますが私は「オリンピックもパラリンピックも中止して欲しい」と投稿してきました。そして最悪は「オリンピックだけ開催してパラリンピックだけ中止」だと。このコロナ禍でパラリンピック開催を応援する投稿をするのは「如何なものか」と本当に悩みます。「でも」も「しかし」も無い状況なのは重々承知ですし医療逼迫どころか崩壊している現場も有ると聞きます。しかしパラリンピックは開催して欲しいのが本音です。当然ながら私ごときがパラリンピック開催の決断権が有る筈も無くインフルエンサーでも無いから「何で悩んでいるの?」と笑われそうですが、やはりこんなブログの場であっても「自分の発言には責任を持たねばならない」と常々考えているので今回は本当に悩み毎日自問自答してきました。しかし誰もが納得出来る安心安全なパラリンピック開催は不可能でした。また開催の正当性も見つかりませんでした。敢えて言えることと言えば「パラリンピックを1日延期すれば選手たちの中には亡くなってしまう人もいる」ということです。事故でも病気でも障害を抱えて参加する選手たちに無理は付きものです。実際東京パラリンピックの一年延期になって出場する予定だった何人もの選手が亡くなっています。無理やりですがオリンピックの感染対策の反省点を生かして開催することが完璧ではありませんけど出来る点は有りますからオリンピック時よりは安心かもしれません。しかしどれもこれも多くの人を納得させる材料には程遠いです。ただただ何の権利も力も発言力もありませんけどパラリンピックを応援させて下さい。