1972年モンゴル(人口300万人首都ウランバートルには145万人)と国交が回復して94歳72年ぶりの最後の旅です。日本兵が造ったオペラ劇場、モンゴル証券所、国立中央図書館、そして市役所が補修はされてはいますが現在でも立派に使われているのには驚きました。モンゴルには12318人が50ヶ所に分けられて抑留され皮革工場、木材工場で強制労働していました。抑留者の10%が亡くなったシベリア抑留者より高い13%の死亡率。その凄まじさは想像を絶するものだったでしょう。当時モンゴルに何故強制労働が必要だったのでしょうか?モンゴルは共産主義陣営の一つで首都ウランバートルはまだ荒野で資本主義社会には遅れをとっていました。しかしモンゴル国民も各々の生活で精一杯。とても首都の整備にまで手が回らない状況でした。そこで抑留者たちを利用した強制労働で首都整備をしたのです。日本人は捕虜という身分で有り強制的だったとはいえ手を抜かず、逆に命懸けで真面目に働きました。70年以上立派に建っている、それこそが事が何よりの証拠で無関係な立場ですが日本人として誇らしく思えました。友弘さんは移動中に両足が凍傷になり意識も朦朧とした状態とはいえ部分麻酔しか出来ない僅かな麻酔での両足切断は、痛みと共に骨が削られ切り落とされる感覚を与えるには十分だったようです。その後も高熱を出したりと直ぐには自身で身の回りの事さえ助けが無ければ出来ない。最も辛かったらのは自分たちも結核やチフス等の病気で辛いのに、代わる代わる無理をして友弘さんの排泄物を処理してくれた事だったそうです。そして世話をしてくれた面々が友弘さんよりも先に次々亡くなってしまう状況が辛かったと涙ながらに語り、途中で耐えられなくなり取材を中止する一幕も。やっとの思いで奇跡的に帰国しますが1972年に国交が樹立するまでは行けなかった国でした。つづく